岩坂彰の部屋

第20回 整合性へのこだわり

岩坂彰

porker player。ポーカーの「プレーヤー」にしようか「プレイヤー」にしようか、迷ったとします。もちろんポーカーテーブルの「客」とか、大会の「競技者」 とか「対戦者」とか、翻訳の可能性はいろいろありますが、とりあえず「プレーヤー」か「プレイヤー」がふさわしい文脈だったとして。

他に何も条件がなければ、私は発音記号で[ei]となる発音に対しては「エイ」を優先するようにしています[注1]。といっても、現実にはたいてい「他の条件」がいろいろとひっかかってくるものです。

外来語や、固有名詞など外国語のカタカナ表記で、表記にゆれがあるものについて、私は以下の原則に従っています。これはわりと一般的な考え方だと思います。

1. 日本で対応する固有名詞が正式にあるものはそれに従う。(団体名、商品名など)
2. 慣用として定まっていると判断したものはそれを優先する。(ラジオ、ブレーキ、ベートーベンなど)
3. 「エイ」や「ヴ」の使用、語末の長音符号「ー」などで慣用上揺れがあるものについては、発表メディアの性質により、メディアごとに判断する。その上で、統一的に用いる(ヴを使うのならば、使えるところでは全部使う)。
4. 語としての慣用がないものについては、原音に基づいて、その言語とカタカナの対応付けの慣用に従う[注2]

(左から)角川書店の『用字用語辞典』、朝日新聞社の『用語の手引き』、共同通信社の『記者ハンドブック』
いずれも、基本的には用語集ですが、『外来語の表記』を含め、表記上の参考資料が掲載されています。写真のものはちょっと古くなっていますので、新しいのを買わないといけませんね。

これらの原則がバッティングした場合、優先順位は上のほうが高くなります。とりあえず3のレベルで、その本では「エイ」を採用することにして「プレ イヤー」としていたら、なぜか「日本ポーカープレーヤーズ協会」が出てきたとします。これは固有名詞で、表記は動かせません。だったら全部「プレーヤー」 で統一してしまおうかと思っていたら「プレイステーション」用のポーカーソフトが出てきたりします。もちろん「プレーステーション」とは書けません。

結局、固有名詞は固有名詞として、一般語だけ「エイ」で統一することにしたら、今度はbreakthroughという言葉が出てきました。カタカナ で表現したい文脈です。慣用としては「ブレイクスルー」よりは「ブレークスルー」だろうけれども、固まっているというほどではないから「ブレイクスルー」 とします。さらにpacemakerが出てきました。これはちょっと「ペイスメイカー」にはしたくないな、ということで、2の適用(慣用)として「ペース メーカー」とします。

「ヴ」についても、語末の「ー」にしても、こんなふうに、基本方針に従うものと慣用に従うものとが混在する形になります。

統一は必要か

結局、一見したところ原則などあるのかないのか分からない状況になるのだったら、最初から原則など考えなくてもいいではないか、と、ふと思ってしま います。それどころか、最初のほうが「プレーヤー」で、あとになったら「プレイヤー」になっていたからといって、そんなこと誰も気にしないし、たぶん気付 きもしないし、統一する必要なんかないという意見さえあります。

たしかに、この『WEBマガジン 出版翻訳』にしても、数多くの執筆者がそれぞれの表記をしているわけですから、全体としてみれば無原則という形ですが、とくに問題は起こっていないはずです。それでも、やはり[注3]こ だわりたい気持ちがあるんですよね。その気持ちは何なのでしょう。最近流行の脳科学的発想で言えば、それは「慣れ親しんだことから外れない安心感」という 基本的なモジュールの働きにすぎないのかもしれません。大学を卒業して私が最初に就いた仕事は検定教科書の編集でしたから、表記の統一というのは無条件の 大前提でした。私はこの刷り込みに縛られて、取り越し苦労をしているだけなのでしょうか。

しかし、もう一度自分の気持ちを覗き込んでみると、それはもっと広く、テキストの整合性というものに対するこだわりの一端であるように思えてきま す。表記原則に統一性が感じられないテキストを読むと、論旨が一貫していない文章を読むときと同じ種類の気持ちの悪さを感じるのです。原書のゲラ段階の原 稿などを読んでいると、「以下の4点」と書きながらそこに箇条書きが3つしかないとか、その論拠だけではその結論は導けないだろう、というような粗が見え ることがありますが、そういう未完成感です。このような、内容を含めたテキスト全体としての整合性へのこだわりというのは、けっして経験により刷り込みな どではなく、「文字による伝達」ということがらそのもののうちに本来的に含まれていることではないでしょうか。

翻訳の現場に引きつけて言うと、たとえば古代ギリシア語のように母音の長短がある言語の言葉をカタカナ表記する際に、一つの資料から「ポセイドーン」を、別の資料から「トリトン」[注4]を 持ってくるということが起こりえます。この二つは長母音への対応ルールが異なるため、不整合ということになります(上述したように、固有名としての『海の トリトン』だとまた別の話になりますが)。ギシリア語表記の習慣的ルールを知らないのであれば、ギリシア神話辞典や、ギシリア神話の翻訳書を利用してでき る限り一つの出典から表記を持ってくるのが現実的ですが、そこで気を抜くと、こういう不整合が起こってしまいます。「トリトン」でも「トリトーン」でも 「トリートーン」でも内容的に誤解の余地はありませんが、しかし仮に「ポセイドーンとトリトン」という翻訳を読んだとしたら、私は訳文全体への信頼感を ちょっと薄めます。文献の参照が行き当たりばったりだとしたら、他の内容は大丈夫なんだろうか、と。

整合性の力

こういう表記上の統一は、翻訳者ではなくて編集者の仕事では?とお思いの方も多いでしょう。たしかにその通りです。実際私も、漢字や送りがなも含め て、統一作業に関しては編集者さんにお任せしてしまうことが多いです。それに、翻訳者にはもっと力を注ぐべきことがあるとも言えます。あんまり些末なこと にこだわって、大きな問題を放置しては仕方がありません。しかし、どこのレベルまでこだわるかというのは、編集者と翻訳者の共同責任だと思うんですね。そ して、どのくらいの整合性を持たせるかは、先月紹介した機能主義的な考え方に即して言うなら、誰にどのような伝達をするかという目的に沿って考えればよい のだと思います。

言葉は意味を伝えるだけのものではありません。「分かればいいじゃん」と開き直って、変換ミスも気にしていないようなブログならば、内容についてもそれなりの受け取り方をします[注5]。文章は、内容ばかりでなく、それ自体が書き手の姿勢を伝えているのです。整合性は、内容の伝達には関係しなくても、読者を納得させる力になります。再び脳科学的な言い方をするなら、理解する機能と、納得する機能は別物だということになるでしょうか。

これからも、カタカナ表記にはこだわり続けていきたいと思います。

(初出 サン・フレア アカデミー WEBマガジン出版翻訳 2010年3月29日 第4巻150号)